やっぱり地震は怖い(その1)
阪神大震災から、もう来年で20年になるのですね。
当時私は、神戸支店勤務で、東灘区住吉という所に住んでいました。
最も被害の大きかった場所の一つです。
1月17日の朝5時45分、6歳になる息子とベッドで熟睡しておりました。
ドーンという地響きでベッドから飛び上がりました。(最初縦揺れ90センチと後で聞きました)
最初何か起こったのか全く分からず、遂に核ミサイルが(それとも北朝鮮のテポドンが)落ちたのかと思いました。
暫くすると、ド・ド・ド・・という地鳴りと共に、ガラスの割れる音や、鉄筋やコンクリートの軋む音、どう表現していいか分からない不気味な音の中で、左右に揺れ(いや叩きつけられる)出しました。
逃げるとか何か対応出来るとかそういう状態ではなく、為す術もなく、ベッド上で左右に叩き付けられていました。
「あ~、これで死ぬのだ。」
本当にそう思いました。
どのくらいたったのか、揺れが収まった時、目を開いた(多分揺れている最中はつぶっていた)が真っ白で1センチ先も見えません(塵やほこりで)、まだ何が起こったのか分かっていない自分がいました。
「○○!」
息子の名前を呼んだのに反応ありません。
暫くすると、洋服ダンスが自分の方に倒れ掛かってベッドのかどで斜めに止まっているのが見えてきました。
三段に分かれるタンスで、一番上の部分は自分の枕元にありました。
(反対側の壁に穴が開いていましたので、そこに当たってから落ちたのだと思います)
息子は床とタンスとベッドの隙間にいました。
「○○大丈夫?」
「う~ん」
まだ寝ているようで、こんな中で寝むれるなんて大物だ。(親ばか)
何とかタンスを元の場所に戻し、ほかの部屋に行こうとしましたが、戸があきません。
戸が曲がっているのと、色んな物が倒れていて、すぐには出られません。
外に避難も出来ません。
ベランダ伝いにリビングに来てみると、そこはガラスの海、テレビも反対の窓際まで飛んでいました。
幸い家族に怪我はありませんでした。
ただ、夜になって、オデコが腫れてきて気が付いたのですが、枕元にあつたタンスが頭に当たっていました。
(それどころではなかったのでしょうが、自分の頭を打って気が付かないなんて初めてです)
外に出られないので、余震に怯えながらベランダに出てみると、そこら中から火の手が、同僚の「谷やん」の家の辺りも燃えています。
「消防車は何故来ないのか?」
「早く消火しないと大変だ。」
まだ冬の朝6時台、地震のため電気も消えていて、火の手以外は真っ暗です。
いつまでたってもサイレン1つ聞こえません。
漸くして日がさしてきたので、ベランダから塀を乗り越え外廊下へ、(11階建ての7階でした)下に降りてみると、その周りの光景に愕然、マンション前の病院の2階がなくなった、(実は2階が1階になった)コンクリート製の電信柱が、ほぼ60度にへし折れ、中の鉄筋がむき出しになっていました。
幸い駐車場にあった車は無事だったので、近くをまわってみました。
何処もかしこも悲惨な状況です。
古い木造建築はさることながら、建てたばかりの住宅やコンクリート造りの建物も傾いています。
阪神高速の高架も傾いています。
JR住吉駅の高架鉄橋は落ちていました。
「あ~、これは暫く仕事も無理だな。」
まだ朝の早い時間は電話が繋がっていました。
比較的揺れの小さかった、西区に住んでいる部下から電話がありました。
「課長、今日は仕事があるのですか?」
「バカ!あるわけないだろう。」
東京の本社の債券部の元上司に電話してみました。
「今日はそちらの地震の影響で、相場は小動き様子見だよ。それで、どうなの?」
「それどころではないですよ、大変なことになっていますよ。」
確かに、テレビ(車に積んでありました)では、神戸を上空から撮影し
「大きな地震がありました。火の手が上がっている所もあり、けが人も出ているようです。」
と放送していました。
村山総理の初期対応のまずさが批判されましたが、マスコミの初期反応もこんなものでした。
情報を伝える現場がそれどころではありませんでした。
発生から4時間以上たっていました。
電話は全く繋がらなくなりました。
とりあえず子供を親元に預け、戻って家を片付けよう。
最近開通した湾岸線のおかげで、30分程で大阪の実家に行けるようになっていました。
出発したのはいいですが、湾岸線は通行止め、
(高架鉄橋が落ちたらしい え~「日本の高速道路は世界一地震に強い」と言ってたじゃない)
国道2号線はすぐに大渋滞、殆ど動きません。
道路沿いの時計屋が倒壊し、歩道に多くの腕時計が(ローレックスがオメガが)散乱、誰も拾おうともしません。
東日本大震災の時も言われましたが、日本人の秩序の良さ、火事場泥棒はいません。
何時間たったのでしょう(多分10時間程)
尼崎消防署の前に来ました。
なんと消防車が数台並んでありました。
1台も出動してないようです。
「何で?」
一瞬目を疑いましたが、あたりまえです。
消防士にも家族がいます。
出動しようとしても、道路は動きません。
水道管も破裂しています。
結局、私たちが、実家にたどり着いたのは13時間後でした。